冷戦時の欧州

70年代のヨーロッパ情勢は73年には、全欧安全保障会議本会議がフィンランドのヘルシンキ、スイスのジュネープで開催され、オーストリアのウィーンでは、東西ヨーロッパ間の相互兵力削減交渉が始まりました。こうした実績が、地についたものになって、緊張緩和から真の相互理解に進むかどうかが間題でした。ソ連は、第二次世界大戦以来30年足らずを経て、多くの目的を達していました。米ソ戦略兵器制限交渉SALTを通じて、軍事的、政冶的な面でのアメリカとの均衡を獲得しました。73年に行われたブレジネフ・ソ連共産党書記長の訪米旅行は、その一つの象徴とみることが出来ました。残るは経済的な対米均衡の達成でした。
73年に正式に調印された東西両ドイツ間の基本条約は、45年以来のヨーロッパの分割を正式に固定化した点で、ソ連の意向にそったものでした。全欧安全保障会議の開催にしても、45年以来のソ連外交の目標でした。この緊張緩和をテコにしたソ連の次の目的は、パンヨーロッパ主義者と同時に反共主義者でもあるクーデンホフ・ カレルギは、欧州安全保障会議は、武力によらざるソ連のヨーロッパ支配だと警告しましたが、そこまで極言しなくても、ヘルシンキ会議の直後、英誌エコノミストはフィンランディゼーションという言葉を使って、ソ連の意図を皮肉りました。東西両ドイツの分割固定化にみられる東欧諸国の固定化を、東ドイツのウルブリヒトになぞらえて、ウルブリヒトゼーションとすれば、未だに革命の機も熟さずに、武力侵入も不可能な西欧に対しては、フィンランド型になってくれることがソ連にとって望ましい姿であるに違いありませんでした。ソ連・フィンランド相互友好条約25周年を記念して、ケッコネン・フィンランド大統領は、リトビア、エストニアのようにソ連領にも併合されず、東ヨーロッパ諸国とも違う、フィンランドの立場を自賛してフィンランディゼーションと言いました。しかし西ヨーロッパ諸国の目からすれば、相互友好条約によって、厳密な意味で中立などはありえず、しかも経済的にも東ヨーロッパ諸国への依存度を高めているフィンランドは、間接的にソ連に従属しているとしか見られません。このソ連の意図に対抗するのが米、西欧、日を結ぶキッシンジャー米国務長官の意図する新たな大西洋憲章構想でした。そしてソ連にとっての目的の阻害要因は、緊張緩和に伴う、国内の民主化の間題でした。
拡大した欧州共同体の経済的実カは、アメリカに立ち並び、この家計と経済圏がソ連の影響に立てば、ソ連は、アメリカとの家計経済的均衡以上のものを手に入れることが可能となります。アメリカは、西欧のフィンランディゼーションを絶対に避けねばならなず、むしろ、タガのゆるんだ、米、西欧の関係をより強化しなくてならない立場に置かれていました。しかしケネディ米大統領の大西洋同盟構想と同じく、このキッシンジャー構想も、曲折を経ねばなりませんでした。
ひとたびヨーロッパ人の自己意識を取戻した西欧は、もしアメリカ主導型の形でキッシンジャー構想を進めれば、これに対して低抗せざるをえないと思われました。お金通貨、通商面で、すでに前哨戦は繰りひろげられていました。西ヨーロッパは、アメリカのこうした立場を利用し、あわせてソ連の思惑を外してヨーロッパの緊張緩和を進めようとしていました。全欧安全保障会議で、思想、人間の自由交流を持出したのも、実はソ連の弱点を狙ったものでした。思想、人間の交流が自由化すれば、ソ連の体制は民主化し、共産主義支配体制の脅威は滅ってきます。それは共存可能の条件でもありました。繁張緩和の動きと逆行して、ソ連の国内での思想、言論弾庄が厳しくなって来ているのは、ソ連自身、緊張緩和と体制の民主化の結び付きを懸念しているからとみられてました。
東西ヨーロッパの緊張緩和が、一見したところ、ソ連ペースで進んで来たにしても、西ヨーロッパが受け身であったというわけではなく、チェコスロバキアに対するソ連・東欧5力国の軍事干渉後5年足らずで、全欧安全保障会議が開かれたことは、50年代のハンガリー事件の長かった後遺症と比べれば、事熊の進展は急ピッチであり、西ヨーロッパ諸国が望まなくては、実は緊張緩和は成立たないのだという見方さえありました。自信を取戻した西ヨーロッパの一つの姿といえるかもしれませんでした。

冷戦時の欧州

            copyrght(c).冷戦時の欧州.all rights reserved