ベルリン問題

ベルリンは占領の初めには米英ソ仏四連合国により統一的に管理されたので東西ベルリンの通行につき、とくに明文で規定されうぺくもありませんでした。1949年9月西ドイツが、10月に東ドイツが成立した後も、両者がベルリンを自己の憲法の範囲内にあるとしている以上、通行は相互の権利としての間題ではありませんでした。61年8月13日、ワルシャワ条約加盟国政府は声明書を発表し、スパイ活動防止のために東西ベルリン間の交通を制限するとして、ベルリンの壁が構築されて西ベルリン市民の東ドイツ、東ペルリンヘの交通は遮断されることとなりました。63年12月、東ドイツ政府はクリスマス期間に限り、西ベルリン市民の東ベルリン訪間を許可し、歓迎されましたが、西ベルリンが赤い海の中に浮んだ孤島である状祝は、依然として続いていました。しかし、71年10月、米英仏ソはベルリン四大国協定に仮調印し、西ドイツから西ベルリン間の通行の自由、西ベルリンから東ドイツ間の往来などについて解決の大枠を規定しました。この大枠にしたがって東西両ドイツおよび東ドイツと西ベルリンは71年11月、二つの細目協定に調印しました。その後、西ドイツの対ソ連ポーランド武力不行使条約批准の後を受けて米英仏ソの四大国は、72年6月3日ベルリン協定の本講印を行ないました。これにより前記細目協定も同時に発効し、戦後欧州における緊張緩和への最大の懸念とされていたベルリン問題は解決へ大きく前進したのでした。

冷戦時の欧州

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