東西ドイツ

1949年、米英仏占領下とソ連占領下のドイツは、ドイツ連邦共和国基本法、人民民主主義憲法を制定して、西ドイツ、東ドイツに分けました。50年代は、この両ドイツ分割間題が東西冷戦の重要問題でしたが、60年代に入って欧州では、61年にベルリンの壁ができて以後、東西緊張緩和の傾向がしだいに表面北し、66年、ドゴール仏大統領がソ連を訪問して、さらに強まりました。このようなことから66年中にば西ドイツが平和計画を出し、67年1月には東ドイツのウルブリヒト元首が二つのドイツの連合実現へと国交の正常化、武力不干渉、軍備結小、西ペルリンの特殊地位化などを提案するなど東西ドイツの接近提案が活発になりました。しかしその後69年10月、西ドイツにブラント社民党・自由党政権ができてから東方政策は清発化し70年3月エルフルト、5月カッセルで東西両ドイツ首相会談が開かれました。しかし東ドイツは、西ドイツに東ドイツの国際法上の承認を迫る最大の切札として、西ドイツから西ベルリンの交通路締め上げを試みる気配を見せ、早速に西ドイツ接近に向うソ連・東欧に抵抗の姿勢を見せました。しかし、71年5月、戦後一貫して東ドイツに独裁的権力を振るって来たウルブサヒトが党第一書記を突然辞任し、替わって現状推持の強硬派と目さるホネッカーが登場したことによって、71年11月、東西両ドイツおよび東ドイツと西ベルリン間、ベルリン間題解決のための二つの細目協定の仮調印をしました。その後、東西ドイツの和解の動きは進展し、72年12月に東西ドイツは基本条約に調印し、東ドイツはドイツ全代表の原期を放棄し現国境を認め、東西両ドイツの国連同時加盟の道を開き、ここに東西両ドイツの間係は和解に達しました。

冷戦時の欧州

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