バスク民族主義運動

1970年12月フランス国境地帯のバスク地方で、かねてから独立を要求して闘ってきたバスク民族主義過激派が同志のブルゴス市での軍事裁判の中止を叫んで、バイル西独名誉総領事を人質として誘拐、国際世論にバスク間題の存在を訴えました。バスク人は人種的、民族的にスペイン人とまったく異っており、17世紀以降たびたび自治を要求し共和制時代には部分的な自治を認められたこともありましたが、フランコ体制はしだいに弾圧政策を強化出し、バスク語の使用さえ禁じようとしてきました。フランコ体制に反対する労働者、インテリ等、民族主義者以外の一部国民が、各地に起った軍事裁判反対デモに参加し、スペイン政府は同月、バスク地区に非常事態宣言をしき、デモ鎮圧にのり出しました。しかしフランコ総統は国内外の激しい反対運動を受けて、同裁判で死刑の判決を下されていました。被告6人の刑を30年の禁固刑にあらためざるをえませんでした。バスク間題はブランコ以後のスペイン間題に大きな影響を及ぼすこととなりました。

冷戦時の欧州

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