全欧集団安全保障体制

1955年7月の四大国巨頭会談で、ソ連のブルガーニン首相が提唱した、アメリカ、カナダをも加えた全欧州諸国の参加する安全保障条約。締約国は相互に不侵略を督い、安全保障を約束しようというものです。この考えは、すでに54年1月から2月のべルリン四国外相会議、同7月のジュネーブ会議、同10月のパリ協定締結の前後に、全欧安全保障条約の締結という形で、ソ連から西欧側に執拗に呼びかけられました。しかし、55年5月、パリ条約発効によっでドイツ再軍備が決定したために、ソ連は東欧軍事同盟によって西欧側に対抗しました。この全欧安保体制構想は、66年ドゴール大統領がNATO統合軍事機構から離脱するや再び脚光を浴び、67年チェコのカルロビバリで開かれた欧州共産党会議でも全欧安保体制の確立を訴えました。69年3月、ブダペストのワルシャワ条約首脳会議で全欧安保会議開催のアピールが打出され、同年10月の外相会議が全欧安保会議開催を提唱すると欧州の集団安保間題がにわかに注目されるようになりました。70年7月の外相会議が、全欧安保会議開催を提唱するため直ちに準備作業に着手すべきだとのコミュニケを発表し、準備にはすぺての関係国が直接参加するのが望ましい。アメリカとカナダも参加できる。開催地ばヘルシンキにしたいというフィンランド政府の申し出を考慮する。との覚書西を側諸国に手渡しました。その後フィンランドのヘルシンキで大使級の予備会議を開き、ついに本会議を開催しました。

冷戦時の欧州

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