中道左派

イタリアの戦後政冶はキリスト教民主党の政権維持の恒常化、反対党としての強力な共産党の存在という点に特色がありましたが、キリスト教民主党は第一党ながらしだいに議席数が減退したことと共産党対策を合わせて、1960年に入って、キリスト教民主党内の左派であるモロ、ファンファー二らを中心に、左寄りの政策をとりました。つまり、社会党の協力を求め、政権安定化の構想を打出したわけです。社会党は当初、閣外協力でしたが、63年の総選挙で左翼が進出したことから、同年12月には、モロ首相は、社会党を閣内に合む連立政権である中道左派内閣を組織しました。この左寄り政策の結果として、66年5月のイタリア地方選挙で、イタリア共産党は初めて伸び悩み、57年以来の懸案であった社民党と社会党の合同という社会党統一がオオ年10月に正式に実現しました。しかし、社会党が68年総選挙で急落し、共産党が再び伸びたことから、中道左派政権ば69年8月崩壊しました。
70年2月ルモール・キリスト教民主党単独内閣は再び中道左派4党の連立政権を樹立するため総辞職しましたが離婚法問題、経済政策をめぐる4党間の対立から48日問におよぶ政治空白が発生しました。同3月ルモール首相は、やっと中道左派政権を組織しましたが与党の社会党・統一社会党が地方政府間題、対共産党関係をめぐりて対立し、ルモールが内閣を投げだし、同8月コロンボ蔵相が与党間の政策協定をとりつけてやっと中道左派政権の存続にこぎつけました。しかし、それも2年ともたず、72年5月、戦後初めての繰り上げ総選挙の結果、極右のイタリア社会運動が議席をほば倍増させたほか、各党の勢力に大きな変動はありませんでした。しかし、この結果、イタリアは中道左派政治に終止符を打たれ、アントレオッチ氏の中道内閣となったが、73年に再びルモール中道左派内閣が成立しました。

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