東方政策

西ドイツのキージンガー・プラント大連立政権は対東欧接近政策を外交の最重要方針に掲げ、ルーマニアとの国交樹立、ユーゴとの国交回復、チェコとの新通商協定など着々と進めましたが、それは東ドイツの孤立化を狙う、現状打破の東方政策でした。これに痛撃を与えたのが68年8月のソ連・東欧4力国軍によるチェコ武力介入でした。これによって東欧諸国は、西ドイツと勝手に取引きすることが、いかに危険な行為であるかを悟らされると同時に、西ドイツもまた現状承認を迫るソ連の固い決意を嫌というほど思い知らされました。69年9月の総選挙後ブラント・シェール小連立政権が生まれ、曲析をえながらも70年8月12日、武力不行便と現状承認などを内容とする西ドイツ・ソ連条約に調印しました。同年12月7日には西ドイツ・ポーランド関係正常化条約に調印し、71年10月から11月にかけてベルリン間題解決の三協定の調印を見るに至りました。その後、72年末には東西両ドイツ基本条約が仮調印され、それを受けてブラント政権は総選挙を行い、圧倒的な勝利を収め、社民党の東方政策は再独国民の承認を得ました。次いで基本条約は本調印され、73年にはプレジネフ・ソ連共産党書記長の西独訪問が実現しました。西独、チェコスロバキア正常化条約も調印され、ブラント社民党政権の東方政策は一応完結したといえます。

冷戦時の欧州

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