北アイルランド紛争

イギリス本国の一角、北アイルランドは少数派である人口の35%のカトリック系住民と人口の65%の多数派のプロテスタント系が激しく対立しています。悲劇の根源は、数世紀にわたりイギリスの植民地的存在に置かれたことと南北分割にありました。多数派は政冶、経済の実権をにぎり続け、少数派は地方の選挙の参政権をはじめ就職、公営住宅の割当など、ことあるごとに差別が行われてきました。
この不満の爆発が1968年頃より一人一票を叫ぶ公民権運動を盛上げ、69年には両派の大衝突が起こり、イギリス軍が出動しました。カトリック系の解放と南北アイルランドの統一をめざすIRAのゲリラ活動に手を焼いた北政府は弾圧を強化したため、紛争は激化し、住民や軍、警官など死傷看多数を出しました。71年9月、ヒース・イギリス、フォークナー・北、リンチ・アイルランド共和国各首相による会談が開かれましたが収集に失敗しました。72年1月30日には、ロンドンでカトリック系市民13人がイギリス軍に射殺されるという、血の日曜日の惨事が起こり、IRAはイギリス兵13人を必ず殺すと予告して報復行動に出るなど、紛争は完全にドロ沼と化しました。ヒース保守党政府は解決への糸口をつかむため、同年3月末北の直接統治に踏みきりました。

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